遺伝性乳がん卵巣がん症候群

「自分は大丈夫」と思っていませんか?もしご自身や血縁者に、若くして乳がんになった方や、複数のがんを経験した方がいるなら、それは偶然ではないかもしれません。実は、約200人から500人に1人という、決して珍しくない割合で「遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)」という体質を持つ人がいます。

この体質は、遺伝子の傷を修復する体のブレーキ役が弱いため、がんのリスク、特に乳がんになる確率が最大で87%にも高まることが知られています。しかし、これは絶望を意味するものではありません。ご自身の体の特徴を正しく知ることは、未来の健康を守るための最も強力な武器になります。

この記事では、HBOCの仕組みから検査方法、そしてリスクに備えるための予防策や最新治療までを解説します。あなたと大切な人のための「知る勇気」が、未来を大きく変えるかもしれません。

遺伝性乳がん卵巣がん症候群の概要

遺伝性乳がん卵巣がん症候群は、英語の頭文字からHBOCとも呼ばれます。 これは、生まれつき特定のがんになりやすい遺伝的な体質のことです。 約200人から500人に1人がこの体質を持つといわれており、決して珍しくありません。

私たちの体には、細胞の設計図である遺伝子が傷ついたときに、 それを正確に修理するための、非常に精密な仕組みが備わっています。 この修理機能は「相同組換え修復(そうどうくみかえしゅうふく)」と呼ばれ、 がんの発生を防ぐために、とても重要な役割を果たしているのです。

この修理は、専門家チームのように複数の遺伝子が協力して行います。 BRCA1やBRCA2という遺伝子が、チームの中心的な司令塔です。 そして、PALB2という遺伝子がBRCA1とBRCA2をつなぎ、 RAD51という遺伝子が、実際に傷を修復する作業員として働きます。

HBOCの方は、この修理チームを構成する遺伝子、 特にBRCA1やBRCA2に生まれつき変化がある状態です。 そのため修理機能が十分に働かず、傷ついた遺伝子が体内に蓄積します。 その結果、がんを発症するリスクが一般の方よりも高まるのです。

HBOCの体質を持つ方は、特に以下のがんになりやすいことが知られています。

  • 乳がん
  • 卵巣がん
  • 前立腺がん
  • 膵臓(すいぞう)がん

ご自身や血縁者で、これらの病気にかかった方がいる場合は、 HBOCの可能性について知っておくことが大切です。

遺伝性乳がん卵巣がん症候群の種類

遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)は、原因となる遺伝子の違いによって、いくつかの種類に分けられます。 どの遺伝子に変化があるかによって、がんになるリスクや種類が異なります。

  • BRCA1遺伝子に変化があるタイプ 特に乳がんや卵巣がんになるリスクが、非常に高くなることが特徴です。
  • BRCA2遺伝子に変化があるタイプ 乳がんや卵巣がんに加え、男性の乳がんや前立腺がん、 膵臓がんのリスクも高くなることが知られています。

近年、HBOCに関連する遺伝子は、BRCA1とBRCA2だけではないことがわかってきました。 例えばPALB2やRAD51といった遺伝子も、がんのリスクに関係します。 これらはBRCA1やBRCA2と同じく、遺伝子の傷を治すチームの一員です。 PALB2は司令塔であるBRCA1とBRCA2をつなぐ重要な連絡役を担います。 そして、実際に傷を修復する作業員であるRAD51が、安定して働けるよう支えているのです。

また、TP53という遺伝子も非常に重要です。 この遺伝子は「がんの監視役」とも呼ばれ、細胞のがん化を防いでいます。 研究では、がんになった人の約半数でTP53遺伝子に異常が見つかるほどです。 生まれつきこの遺伝子に変化があると、HBOCとは異なる「リ・フラウメニ症候群」という、乳がんを含むさまざまながんになりやすい状態になります。

どの遺伝子に変化があるかを調べることは、ご自身に合った健康管理や、より精密な治療法を選ぶ上で大切な情報となります。

遺伝性乳がん卵巣がん症候群の原因

遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)は、特定のがんを防ぐ遺伝子の変化が原因です。 私たちの体には、細胞ががんになるのを防ぐ「腫瘍抑制遺伝子」があります。 これは、いわば「がんの発生を食い止めるブレーキ役」の遺伝子です。

HBOCの主な原因は、このブレーキ役であるBRCA1やBRCA2遺伝子の機能が、 生まれつきうまく働かなくなっていることです。

  • BRCA遺伝子の本来の働き
  • 遺伝情報が記録されたDNAに傷ができたとき、それを正確に修理します。
  • この精密な修理機能は、がんの発生を防ぐために欠かせないものです。

BRCA遺伝子に変化があると、このDNAの修理機能が十分に働きません。 そのため、細胞の中に傷が蓄積し、がんを発症するリスクが高まるのです。

しかし、がんを防ぐ仕組みはBRCA遺伝子だけで成り立っているわけではありません。 PALB2やRAD51といった遺伝子も、チームとして協力しています。 PALB2はBRCA1とBRCA2をつなぎ、RAD51が安定して働けるよう支えています。 RAD51は、実際にDNAの傷を修復する作業員のような役割を担う重要な遺伝子です。

また、「遺伝子の監視役」と呼ばれるTP53遺伝子も、がんの抑制に不可欠です。 研究では、がんになった人の約半数でTP53遺伝子に異常が見つかっています。 この遺伝子は細胞の異常を監視し、がん化を防ぐ中心的な役割を担っているのです。 このように、複数の遺伝子が連携して体を守っており、 その一部の機能が低下することが、HBOCの原因となります。

遺伝性乳がん卵巣がん症候群の症状

遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)は、体質そのものに特有の症状はありません。 症状は、HBOCが原因で発生する「がん」によって初めて現れます。 遺伝子の傷を修理する力が弱いため、がん細胞が生まれやすい状態なのです。 そのため、関連するがんの初期サインを見逃さないことが何よりも重要です。

一般的な発生率と比べ、HBOCの方はがんのリスクが大きく異なります。 例えば、日本人の一般女性が乳がんにかかる確率は約10%です。 しかしBRCA1遺伝子に変化がある場合、そのリスクは最大で87%にものぼります。 ささいな体の変化が、がんの重要なサインである可能性を心に留めておきましょう。

注意したいがんの症状チェックリスト

□ 乳がんのサイン 胸のしこりは代表的な症状ですが、他にも注意すべき点があります。

  • 胸のしこりや硬い部分 痛みを伴わない硬いしこりのことが多いですが、痛みがある場合もあります。
  • 皮膚の変化 えくぼのようなへこみ、皮膚のひきつれ、赤みやただれもサインです。
  • 乳頭からの分泌物 特に血液が混じったような、赤や茶褐色の分泌物には注意が必要です。
  • 脇の下の腫れやしこり 乳がんがリンパ節に広がっている可能性があります。

□ 卵巣がんのサイン 卵巣がんは初期症状が出にくく「静かな病気」とも呼ばれます。 お腹の不調として感じられることが多いため、見逃さないようにしましょう。

  • お腹の張り、圧迫感 腫瘍が大きくなり、お腹に水がたまることで起こります。
  • 食欲不振、すぐに満腹になる 腫瘍が胃や腸を圧迫することが原因です。
  • 頻尿や便秘 腫瘍が膀胱や腸を圧迫することで、トイレの悩みが増えることがあります。
  • 持続する腹痛や腰痛 原因不明の痛みが続く場合は、一度検査を受けることを考えましょう。

□ その他の関連がんのサイン

  • 前立腺がん 尿が出にくい、排尿時に痛みがある、トイレの回数が増えるなど。
  • 膵臓がん お腹や背中の重い痛み、急な体重減少、皮膚や白目が黄色くなる黄疸(おうだん)など。

これらの症状は、必ずしもがんが原因とは限りません。 しかし、ご自身がHBOCである場合や、ご家族に乳がんや卵巣がんになった方がいる場合は、 定期的な検診とともに、ご自身の体の変化に普段から気を配ることが早期発見につながります。

遺伝性乳がん卵巣がん症候群の検査・診断

ご自身や血縁者のがんの経験から、ご自身の体質について考える方もいるでしょう。 遺伝性乳がん卵巣がん症候群(HBOC)の可能性は、遺伝子検査で調べられます。 この検査は、将来の健康を守るための、とても大切な「道しるべ」になります。

遺伝子検査でわかること

検査は、少量の血液を採るだけで行える、負担の少ないものです。 この血液から、がんのリスクに関わる遺伝子の情報を詳しく読み解きます。 結果がわかるまでには、通常3週間ほどの時間が必要です。

この検査では、主にBRCA1やBRCA2という遺伝子の変化を調べます。 しかし、近年の研究で、遺伝子の傷を修理するチームは、 より多くのメンバーで成り立っていることがわかってきました。

司令塔であるBRCA遺伝子だけでなく、連絡役のPALB2遺伝子や、 実際に傷を修理する作業員であるRAD51遺伝子も重要な役割を担います。 これらの遺伝子の情報を知ることは、将来の治療法を選ぶ上でも役立ちます。 ご自身の遺伝子の特徴に合わせた「精密医療」への第一歩となるのです。

保険で検査を受けられる方のチェックリスト

以下の項目に一つでも当てはまる方は、HBOCの遺伝子検査を保険適用で受けられる可能性があります。 ご自身の状況と照らし合わせてみましょう。

  • 乳がんと診断された年齢 45歳以下で診断された。
  • 乳がんの種類 60歳以下で「トリプルネガティブ乳がん」と診断された。
  • 乳がんの診断回数 これまでに2回以上、乳がんと診断されたことがある。
  • 性別 男性で乳がんと診断された。
  • その他のがんの診断歴 卵巣がん、卵管がん、腹膜がんと診断されたことがある。
  • ご家族や血縁者の状況 血縁者に乳がんや卵巣がんになった方がいる。 血縁者にHBOCと診断された方がいる。

検査結果とその意味

検査結果は、次の3つのいずれかで伝えられます。

  • 陽性 がんのリスクを高める遺伝子の変化が見つかった状態です。 予防策や定期的な検診計画を立てるための重要な情報となります。
  • 陰性 今回調べた範囲では、リスクを高める遺伝子の変化は見つからなかった状態です。 しかし、一般的ながんのリスクがなくなるわけではありません。
  • VUS(ブス) 遺伝子に変化は見つかったものの、がんのリスクを高めるか現時点では不明な状態です。 今後の研究で、意味が明らかになる可能性があります。

遺伝性乳がん卵巣がん症候群の治療

HBOCと診断された後の選択肢は、大きく2つに分けられます。 「がんになるのを防ぐ対策」と「がんになった後の治療」です。 ご自身の体の特徴を知り、将来の健康を守るための大切な道しるべとなります。

がんの発症を防ぐ、または早く見つける対策

がんになるリスクに備えるため、主に2つの方法があります。 これらは、がんを未然に防いだり、ごく初期の段階で発見したりすることが目的です。

  • サーベイランス(定期的な検診) がんを早期発見するための、いわば「体のパトロール」です。 早く見つけることで、体への負担が少ない治療を選べる可能性が高まります。

対象となるがん

推奨される検診の例

乳がん

定期的な自己検診や医師の診察、<br>マンモグラフィや造影MRIなどの画像検査

卵巣がん

経腟超音波検査や、<br>血液検査(腫瘍マーカーCA-125など)

前立腺がん

血液検査(PSA検査)など

  • リスク低減手術 がんになりやすい臓器を、発症する前に手術で取り除く方法です。 がんになるリスクを大幅に下げることが期待できる、積極的な予防策です。

がんを発症した後の治療

HBOCの方ががんになった場合、その体の特徴を活かした治療法があります。 その代表が「PARP阻害薬」という、がん細胞の弱点を狙う薬です。

私たちの体には、遺伝子の傷を治す「精密な修理チーム」がいます。 司令塔のBRCA遺伝子を中心に、連絡役のPALB2、作業員のRAD51などが協力します。 HBOCの方のがん細胞は、この精密な修理チームがうまく働いていません。

PARP阻害薬は、がん細胞が頼るもう一つの簡単な修理方法を邪魔します。 すると、がん細胞はどちらの修理方法も使えなくなり、自ら壊れていきます。 正常な細胞は精密な修理チームが働くため、影響を受けにくいのが特徴です。

また、がんの発生には「がんの監視役」であるTP53遺伝子も深く関わります。 研究では、がんの約半数でこの遺伝子に異常が見つかると報告されています。 TP53の異常は、治療が効きにくくなることとも関連があると考えられています。 ご自身の遺伝子の特徴を知ることは、最適な治療法を選ぶ「精密医療」に繋がります。 どの治療法を選ぶか、ご自身の希望を担当の医師としっかり話し合っていきましょう。